父入院 その6「年賀状」

 一般的なタクシーと、介護タクシーではだいぶ様子が違うと聞いていた。父が違和感を覚えて「乗らない」と言い出したらどうしようと、かなり心配していたが、わが家に来て頂いた車は、車椅子やストレッチャーを乗せる様な大きなバンではなく、軽自動車だったので、父はすんなり助手席に乗ってくれた。父と同世代の運転手さんも、父にとっては安心感があったのか、父が運転手さんに目であいさつしているのが見えた。

 入院する病院は、いつも父が使っている駅のそばにあるので、バスで通るその道が普段どんな様子なのか父に聞いたりして、さながら父娘の楽しいおでかけというていを装ったから、わたしには余計胸がちくちくした。

 病院に到着した。わたしは救急外来窓口のインターフォンを押しに行かなければならない。その間に父が車から降りない様、事前に運転手さんに言っていたので父が逃げ出す心配はないだろう。

 インターフォンのところには、すでにあんすこのYさんとケースワーカーのSさんが待ち構えていてくれていた。

 お二人にタクシーまで来て頂いて、父を車から下ろした。

わたしは「お父さん、わたしの荷物持ってくれる?」と父の入院グッズの入った手提げを持たせた。父はすんなり持ってくれた。父はどこまでも、家長気質、長男気質なので、いろんなことが分からなくなっても、頼られると応えてくれる。

わたしの荷物を持った手とは反対の手で、父は介護タクシーの運転手さんの肩をぽんぽん叩いた。おそらく、「あなたもその歳で頑張ってるね」というねぎらいのぽんぽんなのだ。

 父は救急外来窓口から病院内に入るとすぐさま車椅子に乗せられた。わたしは父が「こんなのに乗るか!」と怒り出すかと思ったが、全然そんなことはなくすんなりと乗って驚いた。看護師さんは慣れたものだ。

指示された場所で、父とあんすこのYさんと3人で、先生の診察の順番を待った。5分、10分待ってもらうことがあると事前に聞いていたが、それでも長く感じた。どんな時でも他愛ない話題を振ることが出来るわたしだが、殺風景な病院では何もひらめかない。

父は、いま目の前のことしか話せない。昨日のことでも、今朝のことでも、一瞬前に聞いたことでも、全て忘却の彼方なので、いま目の前で見てることしか話しのタネにならない。

父は読むことが好きなので、何か書いてあればいい。家ではカレンダーに書いてあるわたしの帰宅予定であったり、机の上の本のタイトルだったり、テレビの天気予報やテロップが恰好の話題だったのだ。病院の待合には何も書いてあるものがない。困った。

ふっと、思い立って「お父さん、年賀状今年どうする?」と聞いた。父は「出すさ。あったりまえだよ」と答えた。「じゃあわたし用意するから、誰に出すか心づもりしててね」と言った。「ここ何年かで届く年賀状も減ったよね」とも言った。「そうだね」と父は答えた。

父はこのあと、先生の問診で、めがねも電話もわたしの名前さえ出てこなかったけれど、ほんの一瞬前には年賀状のやりとりをここまでしていたのだ。脳の萎縮がかなり進んでいるとCTの画像を見た先生は言ったけれど、父はタクシーの運転手さんをねぎらったり、年賀状のことをアレコレ話してみたり、いたって普通の父なのだ。

診察室での問診が終り、看護師さんが父を検査の部屋へ連れて行った。

わたしは診察室に残って先生に父の既往症や普段の様子を話した。

先生からは問診の所見や今後の検査、父の入院についての諸々の説明を受けた。

わたしはこの後、入院手続きのためにあちこちの窓口を回り、先生からCTの結果を伺い、看護師さんとケースワーカーさんからも話しを伺い、手続き的なことが終ったのはそろそろお昼休みが終わる頃合いだった。

病院内の食堂でラーメンをかき込み、バスで自宅に引き返し、父の荷物の残り(下着や服など)を用意し(名前のシール貼りが思いの他時間がかかった。高知でシールに名前を書いておいてよかった)、足りないものを買って、もう一度病院へ引き返した。

 帰りのバスの頃には陽が落ちていた。帰ったら母の夕飯の支度だ。

長い一日だった。父はもう夕飯を食べただろうか。食べられただろうか。混乱して怒鳴りちらしていないだろうか。これから先どうなってしまうのだろうか。まだまだ長い一日は終わらない感じ。