最後の更新からかれこれ3か月。蜂窩織炎その後から

 10月12日。蜂窩織炎(ほうかしきえん)という病名がスッと出る様になったのは年寄りまわりの用語が板についてきたということか。

 救急車で運ばれた病院からは、放り出される様に父は退院させられた。

 救急車から下された当初は、緊急処置室で「点滴での治療が2週間ほどかかる」と説明されたが、父が一筋縄ではいかないと分かるや、日曜の早朝からわたしに電話をよこして、やたらと苦い粉の薬を処方するので「これを飲ませれば自宅で大丈夫!」とかなんとか早口でまくしたてた。一切の責任はこちらにはないと言わんばかりに。

 父の病室に行くと、パイプテーブルの上に父の荷物が雑然と置かれていた。たとえば預けていた紙パンツの袋は開きっぱなしで、いまそこからパンツを取ったといった感じで。

 あとで分かったのだが、荷物の一部は病院の別の場所に残されたままだった。荷物をそろえることより、父を病室から追い出すことが何より優先された様だった。

 腹にすえかねているわたしとは対照的に、父は、迎えに来たわたしを見てそれはそれは喜んだ。「おーひろこー!」抱きつかんばかり(言い過ぎかな)。その時はまだ父の静岡への執着が強く、これで帰れる!と父は思ったのだと思う。自宅についてしばらくすると、様子が違うのが分かってきて「いつ静岡に連れて行くのか」としつこかった。 

 それでも、やたらと苦い粉薬を、案の定2日と飲まずに父の蜂窩織炎はどこかへ行った。翌日から熱もおさまっていたので、軽かったのかもしれないが、2週間の点滴が必要と言われたのを思い出しては、父の回復力に驚いた。それと同時に、認知症とはいえ、医療行為が必要な患者を、厄介だからと病院が追い出すことがわたしには信じられなかった。その病院は精神科があり、認知症対応をしている病院だったからなおさらだった。あとで聞いたらこういったことは普通らしい。医療行為が出来ない患者は入院させられないと、わりとあっさり出されるということだった。それは受け入れるべきことなのだろうか。認知症患者は医療行為を受ける権利もないのかとわたしは思ったのだ。そしてそれを誰も疑っていないのだ。

 当事者になって初めて知ること。それはよくあることなのだが、介護というのはとりわけそういうことの連続だなぁとつくづく思う。